日中漢語(yǔ)副詞の比較
一、 はじめに
漢語(yǔ)副詞は中國(guó)語(yǔ)においても主観的表現(xiàn)の成分を持つことがあるのだが、ここで話題とするのは、もともと中國(guó)語(yǔ)にはない(なかった)、日本語(yǔ)において、新たに出來(lái)た主観的表現(xiàn)の成分というものである。
まずこれらの漢語(yǔ)副詞の中國(guó)語(yǔ)における意味と日本語(yǔ)における意味を考察し、両者を?qū)澱栅筏可悉恰⒅饔Q的表現(xiàn)を有する日本語(yǔ)の意味項(xiàng)目を取りだし、考察の出発點(diǎn)とする。多數(shù)の例でこの現(xiàn)象の傾向を示すとともに、個(gè)々の事例に基づき、その発生の個(gè)別的原因と共通の原因を探る。
個(gè)々の副詞の語(yǔ)誌的考察・分析は、主観的表現(xiàn)の発生原因の解明には極めて有益であるが、語(yǔ)誌の研究そのものが未だ全面的なものでなく、參考に値する先行研究が不足している現(xiàn)狀では、當(dāng)面では語(yǔ)誌的探究を避けることにする。語(yǔ)義間の関係・類義語(yǔ)間の役割分擔(dān)・文中各要素(主に主語(yǔ)・述語(yǔ)・対象語(yǔ)と副詞の間)の結(jié)びつき・文構(gòu)造(特に呼応形式)など主観的表現(xiàn)に関わる諸要素を中心として考察する。
二、分析
1、「一々(いちいち)」
Ⅰ、中國(guó)語(yǔ)における意味:
A、逐一に,一つ一つに,一つずつ;
?。ǎ保。幔长巫婴?歳で、もういろいろな果物の名稱を一つ一つ呼べる。
b. 授業(yè)前先生は一人ずつ生徒の名前を呼んだ。
c.授業(yè)前一人ずつ名前を呼ばなくてもいい。
B、全部,すべて,悉く;
(2) 會(huì)場(chǎng)で展示されたテレビはみな畫(huà)質(zhì)が美しかった。
Ⅱ、日本語(yǔ)における意味:
A、逐一に,一つ一つに,ひとつずつ;
(3)紙面の制限で、ここで一々條列しなく、まとめて説明する。
B、全部,すべて,悉く;
(4)あなたのご意見(jiàn)一々ごもっともです。
C、全體にかかわって、一つ漏らさず扱うことを表す。よく、ことこまかに、うるさいな どマイナスの評(píng)価を込める。
(5)a. 一々僕らの名前を呼ばなくてもいいよ。
b. 一々人の悪口言うな。
c. お前一々うるさいなあ。
意味(3)の「一々」は常に「細(xì)かく扱う必要がない」或いは「細(xì)かく扱われたくない」と思われる事柄と共起して、それが意味する過(guò)度の丁寧さ・細(xì)かさと主語(yǔ)・述語(yǔ)・対象語(yǔ)などが描く事柄・事象・場(chǎng)面との不調(diào)和からマイナスの主観表現(xiàn)が來(lái)たのであろう。
「一々」のいやな主観評(píng)価は、「一々」と類義語(yǔ)「一つ一つ」の意味用法における役割分擔(dān)と話者の事柄に対する心理態(tài)度によるものであると考えられる。
2、 「始終(しじゅう)」
Ⅰ、中國(guó)語(yǔ)における意味:
A、行為や狀態(tài)が初めから終わりまで変わらず続くことを表す。ずっと、終始。
(6)今日一日中ずっと大雨が降り続いてる。
B、物事の結(jié)局のことを表す。普通否定と結(jié)びつく。ついに、結(jié)局。
(7)あの無(wú)くした本はついに見(jiàn)つからなかった。
Ⅱ、日本語(yǔ)における意味:
A、行為や狀態(tài)が変わらず続くことを表す。ずっと。現(xiàn)在あまり使わない。
(8) あの乗っ取られたバスの運(yùn)転手は始終落ち著いていた。
B、動(dòng)作や行為が絶え間なく頻繁に行われる様子。ほとんどの場(chǎng)合、おかしい或いは不気味な主観評(píng)価が含まれる。
(9) 太郎は始終笑う。
日本語(yǔ)と中國(guó)語(yǔ)は意味Aで一致するが、意味Bは違う。
〔類義語(yǔ)対照:始終――しょっちゅう〕
「しょっちゅう」と「始終」は、同じく「頻繁」の意を表すが、「しょっちゅう」は行為・動(dòng)作の間に絶え間があるように感じる、「始終」は絶え間が感じられない。
(10)a. 父はしょっちゅう釣りに行く。
b. 父は始終釣りに行く。
(11)a. 次郎はしょっちゅう時(shí)計(jì)を見(jiàn)る。
b. 次郎は始終時(shí)計(jì)を見(jiàn)る。
(12)?。幔?三郎はしょっちゅう「きれいだね」と直美をほめる。
b. 三郎は始終「きれいだね」と直美をほめる。
[同じ行為・動(dòng)作でも、「しょっちゅう」は正常、「始終」は変。たとえいいことでも、頻繁にありすぎると、嫌がられるようになる。類義語(yǔ)の役割分擔(dān)および語(yǔ)の意味(頻度)に対する心理によるものである。]
3、 「大體(だいたい)」
Ⅰ、中國(guó)語(yǔ)における意味:
A、物事の主要で基本的な方面から、全體の様子をまとめて判斷・把握することを表す。おおかた。おおよそ。ほとんど。たいてい。
(13)僕の論文は大體出來(lái)上がっている。
Ⅱ、日本語(yǔ)における意味:
A、細(xì)かい點(diǎn)を切り捨てて、物事の主要な面からその全體をまとめて判斷・把握することを表す。おおよそ。ほとんど。大抵。
(14) 新聞の記事を読んで、事件の様子は大體分かった。
B、端數(shù)を切り捨てて、まとまった整數(shù)を數(shù)えることを表す。大約。約。
(15) あの橋の長(zhǎng)さは大體100メートルぐらい。
C、根源に逆上って、問(wèn)題を掘り下げる、或は斷定的に物事を決め付けたり、相手を非難
したりする気持ちで用いる用法。マイナスのことについて議論する場(chǎng)合に使われる。
(16)a.大體人間は多かれ少なかれ動(dòng)物性を持っているものだ。
b.今回の爭(zhēng)い、大體は君の責(zé)任だ。
c.みんな朝起き起きられるのに、君だけ起きられないなんて。大體君は怠け
者だ。
日本語(yǔ)の3つの意味は、全體像を基本的に把握した上で発した判斷という點(diǎn)で中國(guó)語(yǔ)の意味と合致する。日本語(yǔ)の意味cには「斷定的に議論しよう」とする態(tài)度と「相手をせめる」気持ちという二つの主観表現(xiàn)がありうる。
前者は字面原義からきたものである。総體の角度から物事の狀況・數(shù)量などに対する総括という日中共通の基本的意味用法から、物事の原因・本質(zhì)など複雑な事態(tài)をまとめて、総體的に把握・判斷するまで引いて出來(lái)たと考えられる。細(xì)かい所は行ってないものの、総體的な模様を把握しているから、かなり自信を持って言えると確信して、自分がまとまった結(jié)論を?qū)Г訾工趣い莩证沥虮恧筏郡韦扦ⅳ搿?/p>
後者は前者に由來(lái)する。相手のこと(特にマイナスの面)を斷定すると、せめる言葉が出なくてもせめる感じが出てくる。[大體]に「せめる」という新しい主観表現(xiàn)の成分が現(xiàn)れる原因は、「相手」と「マイナスのこと」という二つの付加條件(言語(yǔ)環(huán)境)にあるのである。
4、 「到底(とうてい)」
Ⅰ、中國(guó)語(yǔ)における意味:
A、物事の結(jié)果・結(jié)局のことを表す。結(jié)局。案の定。やはり。やっと。
(17)3ヶ月も待って、やっとまとまった大雨が降り出した。
B、疑問(wèn)文に用いて、明確な結(jié)果若しくは答えを追究・追問(wèn)を表す。一體全體。一體。
(18)今日一體何人のお客さんがくるの。
C、現(xiàn)狀強(qiáng)調(diào)を表す。さすがに。やはり。なんといっても。
(19)子供はやっぱり子供だ、泣いてからまた遊びに行った。
Ⅱ、日本語(yǔ)における意味:
A、(下に打ち消しや否定の表現(xiàn)を伴って)どうやってみても。どうしても。所詮。
(20) 君にマラソンなんて、到底無(wú)理だ。
現(xiàn)代日本語(yǔ)の「到底」はもっぱら否定の場(chǎng)合に用いられ、否定のムードを強(qiáng)める作用を働くのに対して、中國(guó)語(yǔ)の“到底”は肯定・否定・疑問(wèn)の場(chǎng)合ともに使える、場(chǎng)によって、ムードを強(qiáng)める働きをする。
同じく否定文で・同じ事柄に使われる場(chǎng)合を考察してみると、日本語(yǔ)の「到底」と中國(guó)語(yǔ)の“到底”は「結(jié)局不可能」という意味では共通するが、日本語(yǔ)の「到底」は「どうやって見(jiàn)ても不可能だ」という感嘆のニュアンスがある。それに対して、中國(guó)語(yǔ)の“到底”はやや冷靜な判斷で、感嘆など強(qiáng)い主観的な感じがない。例えば、同じくマラソンの例、
(21) お前はマラソンなんてやっぱりだめだ。
日本語(yǔ)の「到底」と中國(guó)語(yǔ)の“到底”は「結(jié)局」・「最終」という字面原義で共通するが、日本語(yǔ)の「到底」の意味は「可能性を否定する」まで収縮しているため、両者は可能性を否定する場(chǎng)合しか接點(diǎn)がない。
「到底」に感嘆のニュアンスは否定的呼応形式により顕在化される。意味の変化と文構(gòu)造(つまり呼応形式)條件の規(guī)定はその主観的表現(xiàn)要素の形成の要因であると考えられる。
三、 まとめ
以上幾つかの例で、日中漢語(yǔ)副詞(特に主観的表現(xiàn))の區(qū)別を簡(jiǎn)単に分析した。
主観的表現(xiàn)と言う特徴はまず和語(yǔ)の副詞に現(xiàn)れる。例えば「まったく」の否定的な意味合い、「なかなか」の感嘆的ニュアンス、「せめて」の一點(diǎn)張りのような固執(zhí)するニュアンス、「せっかく」の大事さを重んずるニュアンスなどなど。
日本語(yǔ)における漢語(yǔ)副詞の主観的表現(xiàn)の出現(xiàn)は、個(gè)々の語(yǔ)の個(gè)別的な要因のほか、日本語(yǔ)、特に口語(yǔ)の感覚的な性質(zhì)に原因があると考えられる。日本語(yǔ)の文語(yǔ)と口語(yǔ)は全く違う特徴を示している。文語(yǔ)は理性的、分析的或いは抽象的なもので、その語(yǔ)彙は漢語(yǔ)を主とする。それと対照的に、口語(yǔ)は感覚的或いは具象的なもので、その語(yǔ)彙は和語(yǔ)を主とする。両文體の相違は実際、中國(guó)語(yǔ)と日本語(yǔ)の相違を反映していると考えられる。
漢語(yǔ)副詞は導(dǎo)入された後の長(zhǎng)い間、知識(shí)人の文章語(yǔ)(書(shū)き言葉)として使われてきた。それから徐々に庶民の日常言語(yǔ)生活に浸透していって、口語(yǔ)の中に吸収されたのである。その書(shū)き言葉から話し言葉へ変化する過(guò)程では、もともと理性的、分析的で、表意文字の漢語(yǔ)副詞は、口語(yǔ)の感覚的環(huán)境の中に適応し、その表意性文字の性格が薄れ、表音性文字へ変わりつつあり、現(xiàn)在に至っては、多くの場(chǎng)合、それは漢語(yǔ)とは意識(shí)されない、漢字ではなく、仮名で書(shū)くようになった。そういった中で、漢語(yǔ)副詞の共起成分も変わり、意味も少しずつずれていった。そして、新しい意味の生成や類義語(yǔ)との意味用法における役割分擔(dān)、および人々の認(rèn)知態(tài)度などさまざまな個(gè)別的な原因によって、主観的表現(xiàn)が付與され、主観的表現(xiàn)の新しい乗り物として、感覚性に富む日本語(yǔ)の中に溶け込んだのではないかと考えられる。
參考文獻(xiàn)
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川端善明 渡辺実編『副用語(yǔ)の研究』 明治書(shū)院
前田富祺 「漢語(yǔ)副詞の変遷」 和泉書(shū)院
市川孝 『巖波講座 日本語(yǔ)6・文法I』 巖波書(shū)店
金田一京助等 『新明解國(guó)語(yǔ)辭典』第五版 世界図書(shū)出版
飛田良文・淺田秀子 『現(xiàn)代副詞用法辭典』 東京堂出版